輪島大士のオリジナルTシャツ
スキルの説明
輪島大士のオリジナルTシャツ: 輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - )は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。
大相撲時代は身長186cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星・黄金の左、現役引退後はワジー。姓は輪島で石川県出身ではあるが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。金沢高等学校・日本大学と相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を大学の宿舎で過ごさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。
1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。大関昇進伝達式では「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。
またこの頃、貴ノ花と同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。
現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった
。
横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し『勝ち方を忘れた』と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながちうがった見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。
当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。
しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979~1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。
また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士は14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、不戦敗の扱い。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現し、横綱として責任を充分果たしている成績で復活を果たす。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。1976年~1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は、下記の通り:1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)※このように、1976年~1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。※また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し、逆転優勝を果たした。北の湖は、場所後横綱昇進を果たしている)。
このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。また、1975年9月~1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所~1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。
1982年4月妻(師匠・大ノ海の長女である輪島五月(旧姓・中島。「輪島五月」名義で著書あり))が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。結局これが原因で、同年12月に廃業となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。
大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったことも事実といえる。また阿修羅・原のバックドロップを受ける際に恐怖心からか体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷することもあった。輪島が全日本に入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
そういった経験不足の状態でありながら、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合体させて開発したという、オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。なおゴールデン・アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に高角度喉輪落とし(チョークスラム)へと発展していく。他に片足抱え式のバックドロップも得意としていた。「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にしていたらしく、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていたそうであり、また練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」というレッテルは間違いであることが分かる。
\nまた輪島デビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、当時全日本と業務提携していたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか!?」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳本人により否定される。ジャパンプロの長であった長州力も新日本プロレスから北尾光司を契約解除する際に(若さ故に未熟な言動を繰り返していた当時の)北尾と比較して「輪島は一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上ではすれ違いに終わったジャパン勢からもその姿勢は認められていた。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた前田日明はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。
あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。
必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退した。プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。福澤朗の「好きな魚は?」の問いに、真顔で「マグロ!」(ブリと言う時もあった)、「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。また、この番組ではテロップが初めて出たことでも有名。輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。
また、滑舌が悪いことを表すためか、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ『マグロ!?』という具合になっていた。この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。ちなみに本来輪島功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。輪島功一とは元々友人であった為「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなく、木梨が輪島をどう呼んでいたかは不明。後に輪島が回想録等で話したところによると当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが貴明等が輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場している。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。
2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった 。2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた。
その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)。輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日~1973年11月場所12日目)。下記に、輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。(1972年 5月場所\n1973年 5月場所、9月場所、11月場所 1974年 3月場所、7月場所、9月場所\n1976年 3月場所、7月場所\n1977年 1月場所、7月場所、11月場所\n1979年 7月場所\n1980年 11月場所)
大相撲時代は身長186cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星・黄金の左、現役引退後はワジー。姓は輪島で石川県出身ではあるが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。金沢高等学校・日本大学と相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を大学の宿舎で過ごさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。
1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。大関昇進伝達式では「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。
またこの頃、貴ノ花と同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。
現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった
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横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し『勝ち方を忘れた』と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながちうがった見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。
当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。
しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979~1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。
また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士は14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、不戦敗の扱い。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現し、横綱として責任を充分果たしている成績で復活を果たす。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。1976年~1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は、下記の通り:1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)※このように、1976年~1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。※また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し、逆転優勝を果たした。北の湖は、場所後横綱昇進を果たしている)。
このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。また、1975年9月~1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所~1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。
1982年4月妻(師匠・大ノ海の長女である輪島五月(旧姓・中島。「輪島五月」名義で著書あり))が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。結局これが原因で、同年12月に廃業となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。
大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったことも事実といえる。また阿修羅・原のバックドロップを受ける際に恐怖心からか体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷することもあった。輪島が全日本に入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
そういった経験不足の状態でありながら、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合体させて開発したという、オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。なおゴールデン・アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に高角度喉輪落とし(チョークスラム)へと発展していく。他に片足抱え式のバックドロップも得意としていた。「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にしていたらしく、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていたそうであり、また練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」というレッテルは間違いであることが分かる。
\nまた輪島デビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、当時全日本と業務提携していたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか!?」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳本人により否定される。ジャパンプロの長であった長州力も新日本プロレスから北尾光司を契約解除する際に(若さ故に未熟な言動を繰り返していた当時の)北尾と比較して「輪島は一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上ではすれ違いに終わったジャパン勢からもその姿勢は認められていた。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた前田日明はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。
あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。
必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退した。プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。福澤朗の「好きな魚は?」の問いに、真顔で「マグロ!」(ブリと言う時もあった)、「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。また、この番組ではテロップが初めて出たことでも有名。輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。
また、滑舌が悪いことを表すためか、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ『マグロ!?』という具合になっていた。この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。ちなみに本来輪島功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。輪島功一とは元々友人であった為「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなく、木梨が輪島をどう呼んでいたかは不明。後に輪島が回想録等で話したところによると当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが貴明等が輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場している。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。
2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった 。2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた。
その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)。輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日~1973年11月場所12日目)。下記に、輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。(1972年 5月場所\n1973年 5月場所、9月場所、11月場所 1974年 3月場所、7月場所、9月場所\n1976年 3月場所、7月場所\n1977年 1月場所、7月場所、11月場所\n1979年 7月場所\n1980年 11月場所)
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